かねてよりお約束の『タイタス・アンドロニカス』
大阪公演を昨日Yさんと観にゆく。
前にも書き込んだように、二人して地元図書館で
原作(日訳)を借りて勉強し終えてから。
当日
ホールはHK電鉄系列で、何だかハイソな雰囲気です。
サービスもアクセスもよいしで、なかなかよろしい。
入ってみて驚いたのは、客席入り口の廻りに
(ピロティというのかな)衣裳や小道具が置いてある。
人々が手に取り、感触を確かめているのだ。
「まさかねえ、展示じゃないの?」
「でも触ってよさそうよ、どれどれ?」なんつってたら、
「あああぁ〜 う、う、う お、お〜」と発声しつつ
衣裳をつけた役者さんが、傍らを通る。
「?」
「まじ? ここ楽屋入り口?」
「じゃないよ、お客さん入ってくし」
そして、客席をさがしに中へ入ると、
舞台では衣裳や小道具を着けながら思い思いに
発声練習や準備運動などをする役者さんが、
ライトの下でウロウロしている。
衣裳もハンガーラックに吊るされたまま、とか
小道具がパイプ棚に置いたまま、とかも舞台上
あちこちに置いてある。
「○分前です」の裏方さんアナウンスも
まるで司会の人のよに、舞台袖で
見えるところでマイクを握っている。
学生時代、小劇団の友人がいたYさんは、
「何だか当時の学生主宰の公演みたい」
ス、スンマセン、蜷川さん!
だって、ふつう幕下りてるやん!
○○寄贈とかって刺繍の入った、
織物で房のついた、緞帳っていうヤツ。
それも無くて、全部オープンなわけよ。
「さあ、そろそろスタンバイお願いしま〜す」
おねいさんの着席を請うアナウンスのあと、
(これもブザーが鳴るわな、普通)
「じゃ、始めるよ!!」
で、ライトが切り替わっていきなり科白が始まった。
ええ〜〜〜〜? って私たちビギナーは度肝ぬかれっぱなし。
筋は↓を参考にしていただくとして、
http://www.gpwu.ac.jp/door/todokoro/works/tit.html
客席通路を入退場の道(花道構造ではない)に使ったり、
舞台装置も衣裳もシンプルで、却って内容の残虐さが
浮き彫りになってくる。
蜷川さんの演出ってーのは、こんなにも斬新な
(ていうか、私たちの固定観念が強かった)
ものなのか、と最初から最後まで感心させられ
っぱなしで、まさしく口開けたまま。
シェイクスピア作品にも縁がなかった私たちだが、
むしろその中でも異色のこの作品の方が分かり易い
という結論に達したわけで、何がご縁かわからない。
余談だが、幸運なことに、幕間に男性二人から
席を代わって欲しいと言われ、前から7列目の
真中へ移動する。
彼らは前半で気分が悪くなって、後半はいつでも
出られる場所をと最後列の真中あたりの通路側にいた
私たちに声をかけられた。
代わってから気がついた。
隣のご夫人がかなりキツイ香水をつけてたので、
それで、じゃないかな?
相当安物のしかも年配の方好みの、
気分が悪くなる香水。
クリニークの「HAPPY」愛用者の私、
人が多い所では気をつけないと。
総じて、驚きが先に立ち、
文芸作品を鑑賞する姿勢だったかどうか、
演劇の何たるかは結局分からない。
これが蜷川さんのやり方なのか、と
感じるくらいにしか。
病みつきになるほど、のめりこむ性格でのないのでね。
ただ、昨今のむごい殺人事件多発を受けて、
あえてこの作品が選ばれたということも
蜷川さんは言っておられ、今の時代にいて
考えなきゃならない要素は多分にあると思う。
母性愛とか、復讐の観念とか、名誉欲とか。
現代人は理性があまりに肥大化してしまったから、
快楽が抑圧されるふり幅も大きくなって、
ストレスが爆発する力が異常になるんだよなあ
などと、ひとごとのように「豆腐料理」を食べつつ
話し合う私たちでした。
最後に、
麻美れいが美しかった。
鶴見辰吾が雄雄しかった。
真中瞳が頑張っていた。
岡本健一が妖しかった。
グレート義太夫が意外だった。
吉田鋼太郎と萩原流行は、サスガ!だった。
大阪公演を昨日Yさんと観にゆく。
前にも書き込んだように、二人して地元図書館で
原作(日訳)を借りて勉強し終えてから。
当日
ホールはHK電鉄系列で、何だかハイソな雰囲気です。
サービスもアクセスもよいしで、なかなかよろしい。
入ってみて驚いたのは、客席入り口の廻りに
(ピロティというのかな)衣裳や小道具が置いてある。
人々が手に取り、感触を確かめているのだ。
「まさかねえ、展示じゃないの?」
「でも触ってよさそうよ、どれどれ?」なんつってたら、
「あああぁ〜 う、う、う お、お〜」と発声しつつ
衣裳をつけた役者さんが、傍らを通る。
「?」
「まじ? ここ楽屋入り口?」
「じゃないよ、お客さん入ってくし」
そして、客席をさがしに中へ入ると、
舞台では衣裳や小道具を着けながら思い思いに
発声練習や準備運動などをする役者さんが、
ライトの下でウロウロしている。
衣裳もハンガーラックに吊るされたまま、とか
小道具がパイプ棚に置いたまま、とかも舞台上
あちこちに置いてある。
「○分前です」の裏方さんアナウンスも
まるで司会の人のよに、舞台袖で
見えるところでマイクを握っている。
学生時代、小劇団の友人がいたYさんは、
「何だか当時の学生主宰の公演みたい」
ス、スンマセン、蜷川さん!
だって、ふつう幕下りてるやん!
○○寄贈とかって刺繍の入った、
織物で房のついた、緞帳っていうヤツ。
それも無くて、全部オープンなわけよ。
「さあ、そろそろスタンバイお願いしま〜す」
おねいさんの着席を請うアナウンスのあと、
(これもブザーが鳴るわな、普通)
「じゃ、始めるよ!!」
で、ライトが切り替わっていきなり科白が始まった。
ええ〜〜〜〜? って私たちビギナーは度肝ぬかれっぱなし。
筋は↓を参考にしていただくとして、
http://www.gpwu.ac.jp/door/todokoro/works/tit.html
客席通路を入退場の道(花道構造ではない)に使ったり、
舞台装置も衣裳もシンプルで、却って内容の残虐さが
浮き彫りになってくる。
蜷川さんの演出ってーのは、こんなにも斬新な
(ていうか、私たちの固定観念が強かった)
ものなのか、と最初から最後まで感心させられ
っぱなしで、まさしく口開けたまま。
シェイクスピア作品にも縁がなかった私たちだが、
むしろその中でも異色のこの作品の方が分かり易い
という結論に達したわけで、何がご縁かわからない。
余談だが、幸運なことに、幕間に男性二人から
席を代わって欲しいと言われ、前から7列目の
真中へ移動する。
彼らは前半で気分が悪くなって、後半はいつでも
出られる場所をと最後列の真中あたりの通路側にいた
私たちに声をかけられた。
代わってから気がついた。
隣のご夫人がかなりキツイ香水をつけてたので、
それで、じゃないかな?
相当安物のしかも年配の方好みの、
気分が悪くなる香水。
クリニークの「HAPPY」愛用者の私、
人が多い所では気をつけないと。
総じて、驚きが先に立ち、
文芸作品を鑑賞する姿勢だったかどうか、
演劇の何たるかは結局分からない。
これが蜷川さんのやり方なのか、と
感じるくらいにしか。
病みつきになるほど、のめりこむ性格でのないのでね。
ただ、昨今のむごい殺人事件多発を受けて、
あえてこの作品が選ばれたということも
蜷川さんは言っておられ、今の時代にいて
考えなきゃならない要素は多分にあると思う。
母性愛とか、復讐の観念とか、名誉欲とか。
現代人は理性があまりに肥大化してしまったから、
快楽が抑圧されるふり幅も大きくなって、
ストレスが爆発する力が異常になるんだよなあ
などと、ひとごとのように「豆腐料理」を食べつつ
話し合う私たちでした。
最後に、
麻美れいが美しかった。
鶴見辰吾が雄雄しかった。
真中瞳が頑張っていた。
岡本健一が妖しかった。
グレート義太夫が意外だった。
吉田鋼太郎と萩原流行は、サスガ!だった。